自分語りをエッセイにするという考え方
この記事は「書く側」に向けて書いています。
自分の体験を書きたいけれど、 それが自分語りにしかならない気がする——という悩みがあります。
一方で、 書店に並ぶエッセイは、内容だけ見れば著者の身の回りの話です。 同じ材料なのに扱いが違うのはなぜか、というところから整理します。
エッセイと自分語りは、材料が同じで扱いが違う
分けているのは、体験の後ろに何を置いているかです。
| 自分語り | エッセイ | |
|---|---|---|
| 中心にあるもの | 出来事そのもの | 出来事から書き手が見たもの |
| 終わり方 | 話し終わったら終わる | 読者に渡すものを置いて終わる |
| 削り方 | 覚えている順に全部 | 使う部分だけ残す |
| 読者 | 想定されていない | 想定されている |
つまり、 体験は素材であって、作品そのものではありません。 素材のまま出すか、加工して出すかの違いが、呼び名の違いになっています。
「何を見たか」を一行で言えるようにする
これが最初の関門です。
出来事を書き終えたあとに、 その体験から何を思ったのかを一行で書けるかどうかを確かめます。 書けない場合、まだ素材の段階です。
- 起きたこと……時系列で説明できる部分
- 見たこと……その出来事を通して気づいたこと
- 渡すもの……読者が持ち帰れる視点
この三つのうち、 読者にとって価値があるのは後ろの二つです。 最初の部分は、後ろを成立させるための土台として置かれます。
面白いと言われる話し手が何をしているかは 自分語りが面白い人と、そうでない人の違いで扱っています。
削る作業がいちばん効く
エッセイにするうえで、書き足すより削るほうが効きます。
体験を書くと、 関係者の説明、前提の経緯、当時の状況説明が積み上がります。 そのほとんどは、 書き手にとって必要でも、読み手には不要です。
削る基準は一つで、 「その一行が無いと結末が成立しないか」だけを見ます。 成立するなら、その一行は落とせます。
誰が読むかを決めておく
不特定多数に向けた自分の話は、誰にも当てはまりません。
読者を一人に絞ると、書く内容が自動的に決まります。 同じ経験をした人に向けるのか、 これから同じ状況になる人に向けるのかで、残す部分が変わるためです。
置き場所ごとの読まれ方は noteやブログの自分語りは読まれるのかにまとめました。 書く場所そのものの選び方は 自分語りができる場所はどこにあるのかで扱っています。
まとめ
- エッセイと自分語りは、材料が同じで扱いが違う
- 体験は素材であって作品ではない
- 「その体験から何を見たか」を一行で言えるかを確かめる
- 書き足すより、削る作業のほうが効く
- 誰が読むかを決めると、残す部分が自動的に決まる