noteやブログの自分語りは読まれるのか
この記事は「書く側」に向けて書いています。
noteやブログに自分の話を書いてみたものの、 ほとんど読まれなかった——という経験は珍しくありません。
会話での自分語りと、 文章として置かれた自分語りは、条件がまったく違います。 その違いを先に押さえると、何を直せばよいかが見えてきます。
会話とブログでは前提が違う
いちばん大きな違いは、読み手が自分で選んで開いているかどうかです。
会話 … 相手は逃げられない。聞くことを選んでいない
noteやブログ … 読者は自分で開き、いつでも閉じられる
会話の自分語りが嫌われるのは、 相手が聞く相手を選べないからでした。 その意味では、自分語りができる場所はどこにあるのかで書いたとおり、 自分の場所に書くこと自体は誰にも迷惑をかけません。
ただし**「迷惑をかけない」と「読まれる」は別の話**です。
読まれないnoteに共通していること
開かれても、途中で閉じられている場合、原因はだいたい似ています。
- 前置きが長く、何の話なのかが最後まで分からない
- 出来事は書かれているが、書き手がそれをどう見たかが無い
- 読者が持ち帰れるものが用意されていない
- 時系列どおりに全部書いてあり、削られていない
これは会話のときと同じ構造です。 自分語りがうざいと言われる理由|何が引っかかるのかでも触れましたが、 問題になるのは中身ではなく、読み手にとっての意味が置かれていないことです。
ブログの自分語りが読まれるときの条件
読まれている個人の文章には、共通する形があります。
| 読まれにくい | 読まれやすい | |
|---|---|---|
| 冒頭 | 経緯の説明から始まる | 何の話かが先に分かる |
| 体験の扱い | 起きたことを並べる | 起きたことから何を見たかを書く |
| 分量 | 覚えている順に全部 | 使う部分だけ残す |
| 読者 | 想定されていない | 誰が読むかが決まっている |
特に**「誰が読むか」を決めているかどうか**の差は大きく出ます。 不特定多数に向けて書かれた自分の話は、 結果として誰にも当てはまらない文章になりやすいためです。
体験そのものは強い材料になる
手持ちの体験は、他の人が持っていない材料です。
同じテーマの記事が何本もあるなかで、 自分にしか書けない部分があるとすれば、それは体験のほうです。 問題は材料ではなく、渡し方にあります。
体験を読み物として組み立てる考え方は 自分語りをエッセイにするという考え方にまとめました。 また、話し手として面白いと言われる人が何をしているのかは 自分語りが面白い人と、そうでない人の違いで扱っています。
まとめ
- noteやブログは、読者が自分で開いて自分で閉じる場所である
- 書くこと自体は誰の迷惑にもならないが、読まれるかどうかは別の問題
- 読まれない文章は、読み手が持ち帰れるものが用意されていない
- 体験は他人が持っていない材料であり、弱点ではなく強みになる
- 直すべきは体験の中身ではなく、渡し方と順番